− 日本の近代化を支えた九州の石炭 −

 「石炭は工業の原資なり」石炭が豊富にあるか乏しいかは、工業が盛んになるか衰えるかに直結する。1988年(明治31年)『筑豊炭坑砿誌』の序文で八幡製鉄所長官の和田維四朗が述べた言葉です。1911年(明治44年)九州大学が工科大学、医科大学の2分科大学として設立されたのも、すでに年産で1千万トンをこえていた九州の石炭鉱業を背景としたものでした。


 江戸時代末の日本では石炭の消費が増えて、とくに九州は筑豊、三池、高島、唐津と各地域で炭坑が開かれています。19世紀に極東に進出してきたイギリスは、1840年清国と阿片戦争を戦い、そのとき、イギリス艦隊はオランダ船を介して長崎港の近くの高島の石炭を燃料として購入したということです。そのころ、ロシアやアメリカもたびたび艦隊を日本近海に近づけ、燃料の石炭を要求してきました。鎖国の日本の扉をこじ開けたのは、日本に石炭の供給を要求する諸外国の力であったともいえます。


 高島を領有する佐賀藩は、明治維新の前夜、1868年にイギリス人貿易商トーマス・グラバーと合弁で洋式技術を導入し蒸気機械設備を用いた開発にふみきっています。明治に入り、高島のほか筑豊、三池の炭坑にも洋式技術が広がり石炭の生産量が急速に伸びて行きました。国内の産業のエネルギーとして、また、輸出品として重要であったばかりでなく、炭坑の開発は海外技術の導入と発展、資本の蓄積とその一部による高等教育機関の設立にもつながって行きました。明治専門学校(現在の九州工業大学)、九州帝国大学工科大学(現在の九州大学工学部)は石炭生産と関わって設立されました。

 その後も、石炭の生産は伸び、太平洋戦争直前の最大量と戦後復興の時期の増産、やがて、1960年代にはいると、石油が日本のエネルギーの中心と位置づけられ石炭生産が減っていく様子が見てとれます。1987年の高島炭鉱、1997年の三池炭鉱、2001年の池島炭鉱の閉鎖で九州の石炭生産は終わろうとしています。


 これまで九州で生産された石炭の総量はおよそ16億トンになります。埋蔵量としては、なお80億トンが残っていると見積もられています。このことは、ある地域の資源というものは、枯渇して産出が止まるのではないということを示しています。その社会の要求によって生産が始まり、また生産をやめるのだということです。どのようなエネルギーが使われるかは、私たちがどのような社会を作りたいと思うのかによって決まるのです。

日本と九州の石炭の生産量の変化


1.石炭ってどんなもの?
2.石炭はどうやってできる?
3.石炭の役割 −過去・現在・未来− (1)
4.石炭の役割 −過去・現在・未来− (2)
5.21世紀石炭の役割
6.石炭はどうやって掘り出す? (1)
7.石炭はどうやって掘り出す? (2)
8.石炭はどうやって選び出す?
9.通気と地下空間の安全 (1)
10.通気と地下空間の安全 (2)
11.海外への技術移転 (1)
12.海外への技術移転 (2)
13.海外への技術移転 (3)

石炭に関連する展示物の紹介



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